読売ジャイアンツ | |||
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川上哲治が、既に14が沢村栄治の永久欠番であったことに加え、いずれは自分の16も永久欠番になることを見越して、 長嶋に15を背負わせ、将来は14〜16を連番で永久欠番としたかったが、長嶋が1ケタ番号を希望したため実現せず。 | |||
1968年・夏に川上哲治監督が、巨人が田淵を獲得した暁には背番号2を与えると確約。これによって1の王貞治、3の 長嶋茂雄の間に2の田淵が入ることで、連番のスター誕生を夢見たが、実際には田淵は阪神に入り、背番号は22。 | |||
クロマティが0を希望するも、巨人・正力オーナーが「0は背番号として相応しくない」と却下したため。 | |||
第2次藤田監督時代、巨人キャンプに臨時打撃コーチとして招聘され、その際に背番号42をつけた。 | |||
阪神タイガース | |||
阪神に入団した際に12と21を提示されたが、番号交渉時、既に21は関川に内定しており、実質的には12が与えられた。 だが、実際には鶴見のトレードにより空いた15を着用。変更理由は不明だが、15の方が投手番号という認識だったか。 | |||
阪神球団は吉田に背番号01をあてがい、入団発表。しかしセ・リーグ連盟からクレームが付き、背番号91に変更。なお、 「BBM98 ダイヤモンドヒーローズ」のNo.88、吉田豊彦のカードの解説文によれば、01は吉田の希望だったとされる。 | |||
阪神入団当初は48をつける予定だったが、球団サイドから「31=掛布のイメージが強すぎて誰もつけようとしないため、 それを中和して欲しい」と依頼され、それを受けた広澤の背番号は31となった。 | |||
2012年オフ、米球界から阪神入りした西岡剛に7を譲った俊介の背番号は、40になることが発表された。しかし俊介は、 選手用の空き番の中で最大だった68への再変更を希望。その68には「6と8の間に7が入る」という意味も含まれている。 | |||
横浜DeNAベイスターズ | |||
2001年オフ、相川の背番号を59から25へ変更することが決定し、一旦は公式にアナウンスもされた。だが、相川自身が 「変更するなら1桁」とこだわったため、25への変更は実現せず。その後、2004年に1桁の8に変更し正捕手として活躍。 | |||
オリックス・バファローズ | |||
1973年秋のドラフトで、阪急は江川を1位指名。江川は阪急に入団しなかったが、用意されていた背番号は1だった。 | |||
オリックスが獲得表明し、背番号50まで発表するも、ソフトバンクとの契約が有効とされ、ソフトバンクで背番号49。 | |||
埼玉西武ライオンズ | |||
1990年、西武にドラフト外で入団した小島は、背番号14を与えられ練習に参加。しかし小島は、「大学在学期間が短い」 という理由で西武が高卒扱いで登録していたため、協約違反で契約取り消し。後に改めて中日入りした際に背番号21。 | |||
千葉ロッテマリーンズ | |||
1996年シーズン終了後、背番号8への変更が内定していたが、阪神へのトレードが決定したため8番着用は実現せず。 移籍先の阪神では背番号28を背負った。 | |||
北海道日本ハムファイターズ | |||
大洋から復帰した際、「ジェームズ・ボンドのような危険な雰囲気の選手になりたい」という理由で007番を希望するも、 「背番号を興味本位で扱ってはならない」とパ・リーグ連盟から却下され、00に。 | |||
東北楽天ゴールデンイーグルス | |||
2012年のシーズンオフに、「2013年から聖澤の背番号が23から1に変わる」という報道が流れたが、実際には1に変わる ことはなかった。実現しなかった理由は不明。 | |||
大阪近鉄バファローズ | |||
アマチュア時代、ずっと1をつけていた大島は近鉄入団時に1を希望するも、鈴木の永久欠番のために却下される。 そこで今度は頭に0をつけた01を希望するも認められず、最終的に当時流行していた00が与えられた。 |