読売ジャイアンツ 永久欠番 | |||||||||||||||
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巨人黎明期のエース。巨人に初優勝をもたらした速球投手だったが、度重なる応召で肩を痛め、これが投手・沢村にとっての致命傷。 1944年12月に戦死した沢村の功績を称えて、終戦後の1947年に背番号14の永久欠番と沢村賞が制定。通算63勝22敗。防御率1.74。 | |||||||||||||||
戦争で主力の大半を軍隊にとられた巨人が、球団史上初のトレードで獲得。移籍前年は西鉄で打率.190でしかなかったが、巨人移籍 1年目は打率.348。1947年に病死し、黒沢の遺言と球団の感謝の意から永久欠番に。通算打率は.259だが巨人での通算打率は.300。 | |||||||||||||||
入団時は投手だったため、本来投手番号の16が与えられたが、本格的な野手転向後も背番号は変更せず。首位打者5回、本塁打王 2回、打点王3回、最多安打6回の実績で「打撃の神様」の異名。V9達成は77番への変更後だが、16番での監督時代も2度の日本一。 | |||||||||||||||
享栄商を中退して国鉄入り。国鉄で複数回開幕投手を務めた唯一の投手で、国鉄時代通算353勝。巨人に移籍し、通算400勝を達成。 国鉄−巨人で背負った34は巨人で永久欠番になり、それが巨人入りの条件だったともされるが、400勝は十分に永久欠番級の偉業。 | |||||||||||||||
王貞治と共に「ON砲」を形成し、巨人及びプロ野球人気が絶頂期にあった時代の主力。打撃成績は同僚の王に数字では敵わないが、 ファンの期待にプレーで応えた「Mr.ジャイアンツ」。巨人監督で唯一全順位を経験。選手としての瞬間最大風速はNPB史上最高クラス。 | |||||||||||||||
長嶋茂雄と共にV9巨人の主力として活躍。公式戦通算868本塁打に象徴されるように、NPBの本塁打に関する記録の殆どを保持する。 監督として巨人、ダイエー・ソフトバンクを率い、セパ両リーグで優勝監督に。第1回WBCでは日本代表の監督を務め、初代王者に輝く。 | |||||||||||||||
読売ジャイアンツ 準永久欠番 | |||||||||||||||
巨人生え抜きの選手に優先的に着用させる番号。1981年〜1995年までドラフト1位入団の原辰徳が背負い、原引退の翌年からは原の 承認のもと、ドラフト2位入団の仁志敏久が着用。かつての8番・原の監督時代には、移籍選手への「誠意」として示される感も受ける。 | |||||||||||||||
2014〜2021 | 「ゴジラ」の愛称で親しまれ、巨人の四番として活躍し、MLBでも見事な成績を残した松井の番号。「55=松井」のイメージが強いだけに、 期待を込めて55番を託された後継者には、嫌でも重圧がつきまとう。秋広はその重圧を跳ね返し、新たな55番像を作ることができるか。 | ||||||||||||||
阪神タイガース 永久欠番 | |||||||||||||||
「物干し竿」と呼ばれた長尺のバットを使い、本塁打を量産した「初代ミスタータイガース」。藤村以外にミスタータイガースはいないとの 考えから、「真のミスタータイガース」とも。阪神の10番を背負った選手は藤村以外におらず、ある意味で真の永久欠番と言える番号。 | |||||||||||||||
村山が阪神では「不吉な番号」とされていた11番を選んだのは、昭和11年生まれで、11月11日に阪神と契約したため。村山はその後、 打倒巨人の熱投で「2代目Mr.タイガース」となる。村山のデビューは藤村の引退試合であり、藤村の10と村山の11が唯一揃った試合。 | |||||||||||||||
華麗な守備を見せた「今牛若丸」吉田の23は、吉田に匹敵する後継者が出るまで欠番に。が、後を継ぐ者は現れず、吉田が1985年に 日本一監督となったため退任時に永久欠番に。18年も欠番だったという事実が、阪神の23が永久欠番に足る番号であることを物語る。 | |||||||||||||||
阪神タイガース 準永久欠番 | |||||||||||||||
2003年と2005年の阪神2度のVメンバー。圧倒的な快足を武器とした、盗塁王争いの常連選手だったが、2009年シーズン中に大ケガを 負ったために無念の引退。その後は欠番時期が長かったが、2018年からは赤星同様に足の速さが魅力の外野手・島田海吏が背負う。 | |||||||||||||||
2019〜 | 広島からFA加入した2003年、MVPに輝く活躍を見せた2005年と、阪神2度のVに貢献した主力打者にして、1492試合連続フルイニング 出場を果たした「鉄人」金本が監督時代も背負った6番。その金本以前に6番を背負った顔ぶれも凄く、故に、後継者には注目が集まる。 | ||||||||||||||
1999年ドラフト1位で入団後も芽が出なかったが、プロ入りから3つ目の番号となる22を背負った2005年に中継ぎとして阪神のVに貢献。 「火の玉ストレート」と称された魔球で、日米通算245セーブをあげた藤川に匹敵する投手が出現するまで、22は凍結されることとなった。 | |||||||||||||||
2023〜 | 2013年現在、最後のMr.タイガースである掛布が現役時代に背負った31は、チームの主砲にと期待される選手に与えられ続けてきたが、 その掛布が二軍監督として再び31をつけた際には、改めて「掛布の31」の凄さを知らしめた。果たして、真の後継者誕生の時はくるのか。 | ||||||||||||||
在籍10年で6度の開幕投手を務めるなど、エースを自覚しながら投げ続けたメッセンジャーは、まさしく2010年代の阪神投手陣の中心で あった。21世紀に入ってから外国人投手が価値を高めた阪神の54。その54を受け継いだ加治屋は、リリーバーとしての活躍を見せた。 | |||||||||||||||
NPB歴代2位の1939試合連続出場を果たし、生え抜き2人目の通算2000本安打も成し遂げ、結果、球団史上最多の2085安打を放った 「鉄人」鳥谷。その鳥谷と同様、岡田新監督の下で入団し、1を与えられた大卒野手の森下は、2023年からどのような歴史を紡ぐのか。 | |||||||||||||||
中日ドラゴンズ 永久欠番 | |||||||||||||||
戦前は投手として、ノーヒットノーランや20勝を記録。戦後は野手に転向し、1950年には46本塁打。戦争で肩を痛めたため投手を断念 せざるを得なかったが、野手としても非凡な成績を残した。戦争を跨いで活躍した日本一メンバー・西沢の15は中日初の永久欠番に。 | |||||||||||||||
主将としてチームを纏めた服部の本来のポジションは捕手だが、時には投手としてマウンドにも立つ、2桁勝利6度のエースでもあった。 中日の15と10は、西沢と服部を引退させるための「妥協点」と言われるが、両者を現代に伝える「語り部」的役割も確実に果たしている。 | |||||||||||||||
中日ドラゴンズ 準永久欠番 | |||||||||||||||
新人の年からスタメンの座を獲得し、現役引退まで中日一筋22年。中日4度の優勝と1度の日本一に貢献した「Mr.ドラゴンズ」。立浪の 引退後、球団が3番を与えようとした主力の森野将彦はそれを辞退。そんな3番は、吉川大幾から高橋周平と若竜に託され続けている。 | |||||||||||||||
前人未踏のNPB通算400セーブと1000試合登板を達成した「鉄腕」岩瀬。1年目からリリーバーとして活躍し、特にクローザーに転向して 以降はファンに勝利を約束し続けた。岩瀬の永久欠番でもおかしくなかった13は2020年から橋本が背負うが、自分の色を付けられるか。 | |||||||||||||||
中日ドラゴンズ 期間限定欠番 | |||||||||||||||
1939年〜1941年までプレーし、3年間で通算38勝。1944年に24歳の若さで戦死した村松の背番号18は、1950年まで欠番扱いとなった。 | |||||||||||||||
太平洋戦争時、神風特攻隊として散った伝説の投手。石丸が生きて戻っていれば、26が中日のエースナンバーとなった可能性もある。 | |||||||||||||||
広島東洋カープ 永久欠番 | |||||||||||||||
1968年ドラフト1位で広島に入団した山本は、プロ入り最初の2年間は27番で、3年目から8番に昇格。1975年の広島初優勝時の主軸で 「Mr.赤ヘル」と呼ばれた山本。その背番号8は、広島が弱小球団から強豪球団に成長した記念碑的な意味合いも含んだ永久欠番に。 | |||||||||||||||
「鉄人」の異名を持つ衣笠だが、その由来はプロ入り当初の背番号が28で、漫画の「鉄人28号」に引っかけたものだった。だが衣笠は、 連日試合に出続け、遂には当時の連続試合出場世界記録を破り名実共に「鉄人」に。その衣笠を広島は永久欠番の形で称えている。 | |||||||||||||||
広島のエースだった黒田はMLBで成功を収めた後、公言通りに広島に復帰。チームの精神的支柱として、広島25年ぶりのVに貢献し、 その優勝決定試合では勝利投手になるというドラマ。チームの内外に強烈な影響を与えた黒田の15は広島3つ目の永久欠番となった。 | |||||||||||||||
広島東洋カープ 準永久欠番 | |||||||||||||||
「20世紀最後の200勝投手」北別府の20は、その引退から8年の空白を経て、2002年に自由枠で広島入りした永川に与えられた。結果、 北別府の213勝、永川の165セーブは、共に2020年現在の球団最多記録。昭和と平成の大記録に、令和の栗林はどこまで迫れるか。 | |||||||||||||||
現役時代はトリプルスリーを達成するなど身体能力の高い選手で、広島一筋17年の現役生活で優勝を1度経験し2000本安打も達成。 野村は2009年の監督就任時に77を選択。7年間空席だった7は、野村監督が育成に心血を注ぐ「鯉のプリンス」堂林翔太に託された。 | |||||||||||||||
プロ入り当初は37番をつけていた緒方だが、1995年に盗塁王とゴールデングラブ賞をW受賞し、翌年から9番に昇格。広島一筋22年の 現役時代はケガに泣かされたが、それは常に全力でプレーしていたことの証明でもあった。緒方の後は丸、秋山と左の好打者が続く。 | |||||||||||||||
2022〜 | 51→31→1と、出世魚の如く背番号を若返らせていた前田の大ケガは、日本野球界の大きな損失と言えた。打撃の求道者然とした面を 持ち、ファンからの支持も絶大だった天才が背負った1は鈴木誠也に受け継がれたが、鈴木のMLB転出に伴い、2022年から再び欠番。 | ||||||||||||||
プロ入り当初、打てず守れずと酷評された新井は、広島の猛練習の中で力を付け、主力打者にまで成長。阪神へとFA移籍した金本に 対する慕情と広島への愛情の間で揺れたこともあったが最終的には広島で栄冠を掴んだ。そんな新井の25は本人の監督就任で復活。 | |||||||||||||||
東京ヤクルトスワローズ 準永久欠番 | |||||||||||||||
史上初めてセパ両リーグで1000本安打を達成した大杉が背負ったヤクルトの8は「保留欠番」となったが、ロサンゼルス五輪の金メダル 獲得に貢献したドラフト1位入団の広沢克己に譲られた。広沢の後、8をつけた生え抜きが活躍したとは言い難く、後継者が待望される。 | |||||||||||||||
1990年代のヤクルト黄金時代の一翼を担った球史に残る名捕手で「ID野球の申し子」と呼ばれた古田。そんな古田の27は「名誉番号」 となり、この番号を背負うに相応しい捕手の出現が待たれていたが、2021年に誕生した「日本一捕手」中村が、その後継者に選ばれた。 | |||||||||||||||
若松以来、各時代の「Mr.スワローズ」で受け継がれる栄光の番号。1992年〜1999年にヤクルト黄金時代の主力・池山が背負った後、 2001年〜2006年は岩村、2010年〜2011年は青木と、後の大リーガー2名が着用した。2016年からは「3・3・3」を達成した山田の背に。 | |||||||||||||||
2024〜 | 2001年のヤクルトVメンバーにして、ゴールデングラブの常連だった守備の名手。2000本安打も達成するなど、あらゆる面でチームを 牽引した存在だが、五輪代表の主将や選手会会長を務めた強烈なキャプテンシーこそが、6番を特別な番号たらしめた何よりの要因。 | ||||||||||||||
横浜DeNAベイスターズ 顕彰 | |||||||||||||||
横浜DeNAベイスターズ 準永久欠番 | |||||||||||||||
2021 | 横浜一筋で25年の現役生活を貫き、一代で18を横浜のエースナンバーたらしめた三浦。その功績を評した球団が、18をチームの象徴 たる「横浜ナンバー」に制定、準永久欠番とした。その18は2022年から、三浦監督自身がクジを引き当てたドラ1投手の小園に託された。 | ||||||||||||||
大洋時代の松原誠、横浜時代の村田修一といった主力打者の系譜を、DeNAで見事に継いだ筒香嘉智のメジャーリーグ挑戦に際して、 筒香がいつでも戻ってこられるようにと、DeNAは25の欠番処置を決定。そして2024年、舞い戻った筒香の背中でDeNAの25は復活した。 | |||||||||||||||
オリックス・バファローズ 準永久欠番 | |||||||||||||||
「Mr.ブレーブス」長池の3は、退団後は欠番扱いとなったが、長池が1985年に西武コーチに就任したために欠番ではなくなったとされる。 球団がオリックスとなってからも、石嶺の後に空白期間が設けられ、常に主力と期待する選手に与えられ続ける等、扱いは丁寧な印象。 | |||||||||||||||
「世界の盗塁王」福本の7は永久欠番に値する番号で、実際1984年にはその決定がなされたが、福本が現役であることを理由にそれを 辞退。この機会を逃したため永久欠番にならなかったとも思えるが、福本引退の経緯を考えると、永久欠番にはならない運命だったか。 | |||||||||||||||
球団がオリックスとなってから、背負った選手の成績のみで間違いなく永久欠番に値する、ほぼ唯一の番号。ファンもアンチも多いのは、 イチローがそれだけ突出して目立った存在であるがためとも言える。既に実質的な永久欠番と化しており、今後の扱い方に注目したい。 | |||||||||||||||
2008年にオリックス入りした小瀬は、プロ3年目の2010年2月5日、春季キャンプの宿舎から原因不明瞭の転落死。その後は欠番状態が 続いていたが、事の経緯を全て承知の上で41を希望した佐野が2020年から着用することに。奇しくも、小瀬と佐野は共に9月2日生まれ。 | |||||||||||||||
オリックス・バファローズ 特殊欠番 | |||||||||||||||
球団創設時から一度も使用されたことがない番号。阪急時代は「阪急(9)が(2)位になる=優勝できない」という縁起の悪さから未使用説、 オリックスになってからは宮内オーナーの番号という説がある。2018年の日刊スポーツで、「宮内オーナーの番号説」に真実味が増した。 | |||||||||||||||
埼玉西武ライオンズ 永久欠番 | |||||||||||||||
プロ1年目から8年間で、平均登板数が66試合、平均投球回数が345イニングを数え、その全てのシーズンで20勝以上をマーク。1961年 にはNPBのシーズン最多勝記録となる42勝をあげた「鉄腕」稲尾。その生誕75周年となる2012年に、西武球団が永久欠番に制定した。 | |||||||||||||||
埼玉西武ライオンズ 準永久欠番 | |||||||||||||||
大下の引退後、当時の球団社長の意向で、当面の間は欠番となることと、3を使用する際には相応しい選手の存在と大下自身の同意を 条件としたとされる。3の使用は1968年に解禁され、西武球団となってから土井、清原、中島といった面々が長年3をつけた歴史は見事。 | |||||||||||||||
打撃主要タイトルを複数回獲得した「怪童」中西の6は、その引退後に相応しい後継者が現れるまで欠番となった。だが球団が西鉄から 太平洋に身売りされたため、当時の稲尾監督が菊川昭二郎に6を与えた。以後、歴史を紡ぐ6だが、中西級の主には巡り会えずにいる。 | |||||||||||||||
西武黄金時代の正捕手・伊東の27は、伊東自身が後継者に相応しいと認める正捕手が出るまで欠番に。この「捕手のエースナンバー」 を巡って、野田浩輔と細川亨がしのぎを削った。結果、27を得たのは細川だったが、背番号を餌に選手育成に成功した好例と言えよう。 | |||||||||||||||
現役時代、リリーバーとして西武のVに貢献した森は、MLB挑戦後、2015年から西武にコーチとして復帰。しかし、その在職中の2017年 6月28日に突然の病死を遂げたため、西武は89を準永久欠番としていた。その89の使用は、同い年の平尾のコーチ就任で解禁された。 | |||||||||||||||
埼玉西武ライオンズ 期間限定欠番 | |||||||||||||||
2001年オフ、決定していた解雇の発表前、デルトロは母国で交通事故死。これを所属選手の死亡事故とした西武は、32を1年間欠番に。 | |||||||||||||||
将来を嘱望されていた若手だったが、1年目のオフ、心不全のため19歳で逝去。この事態に西武は59を欠番とし、没後10年を機に開放。 | |||||||||||||||
福岡ソフトバンクホークス 準永久欠番 | |||||||||||||||
水島新司が1973年から連載を開始した漫画『あぶさん』。その主人公・景浦安武の番号。漫画を通しての野球界への貢献度の高さから 現実世界でもホークスの90は欠番となっていた。2014年に『あぶさん』の連載が終了、水島の了承も得たことで欠番処置は解除された。 | |||||||||||||||
1999年に「炎の中継ぎ」として、ダイエーの初優勝・日本一に貢献したV1戦士。優勝パレード参加後すぐに入院し、2000年は闘病生活を 送った藤井は、チームのV2を見届けた後、31歳の若さで現役のまま病死。永久欠番も検討される15は、慎重に扱って然るべき背番号。 | |||||||||||||||
西武黄金時代の一翼を担った主力打者・秋山と、福岡移転時の「Mr.ホークス」佐々木の両名を含んだ3対3の「世紀のトレード」。秋山は ダイエーでも西武時代と同じ1を背に、ダイエーに優勝をもたらした。秋山の引退時に永久欠番を予定も、柴原が1を希望したため撤回。 | |||||||||||||||
2013〜2014 | 2012年現在の「Mr.ホークス」小久保。2003年オフに巨人へ無償トレードされた小久保が、いつかホークスに復帰を果たした時のために、 9番は欠番となる。その小久保がFAでの帰還時につけた以外は空席だった9番も、2015年から「9番の後継者」柳田悠岐が背負うことに。 | ||||||||||||||
「常勝ホークス」の礎を築いた王監督の番号。監督就任時は弱小球団だったホークスを強豪へと変貌させた功績から、監督退任の際に 永久欠番が検討されるも王自身が辞退。後任の秋山監督も継承を辞したため準永久欠番に。ホークスの天と地を知る歴史的ナンバー。 | |||||||||||||||
千葉ロッテマリーンズ 準永久欠番 | |||||||||||||||
現役・監督時代を通して、そのプロ野球人生を全てロッテで過ごした「Mr.ロッテ」。主力選手として1970年と1974年の優勝に貢献。監督と しては1988年の「10.19」が記憶に残る。チームの千葉移転で欠番解除。21世紀に入ってからは、今江、中村の背で復権が進んでいる。 | |||||||||||||||
ファン | ファン | 2004年限りで酒井泰志が引退し26番が空いたことに加え、ベンチ入り可能な選手数が25人で、ファンは26人目の選手という考えのもと、 2005年から26番はファンの番号に。球団の正式な制定前からファンは26番を掲げており、球団とファンの想いが準永久欠番を生んだ。 | |||||||||||||
北海道日本ハムファイターズ 永久欠番 | |||||||||||||||
日本ハム球団の初代オーナー・大社義規が、1981年の優勝時に着ていたユニフォームの背番号が100番。2009年1月13日の殿堂入り 決定後、球団は100番を大社義規の永久欠番とした。オーナーの永久欠番はNPB初だが、独特の背番号観を持つ日本ハムならでは。 | |||||||||||||||
北海道日本ハムファイターズ 準永久欠番 | |||||||||||||||
日本ハム球団初にして東京時代唯一の優勝監督。監督としての退場回数は実に8回だが、それは勝利への執念と選手を思う気持ちの 強さの表れでもあった。その性格から「親分」の愛称で親しまれた大沢以外に86をつけた者はおらず、実質的な永久欠番と化している。 | |||||||||||||||
大谷 翔平 | かたや大エースとして、かたや投打二刀流の主力として、共に日本ハムの優勝に貢献後、MLBへと羽ばたいていった、NPB史上に残る スター選手。球団は「2人に匹敵するスター選手が登場するまで」連名の欠番としたが、11の解禁は、いつ、誰によって果たされるのか。 | ||||||||||||||
北海道日本ハムファイターズ 期間限定欠番 | |||||||||||||||
2009年、投手コーチとして入団し二軍を担当。2010年から一軍を担当する予定だったが、その1月に57歳の若さで急逝したため欠番に。 | |||||||||||||||
東北楽天ゴールデンイーグルス 永久欠番 | |||||||||||||||
ファン | 50年ぶりに日本プロ野球界に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルス。その背番号10は、グラウンドでプレーする選手9人に続く、 10人目の選手の意味でファンのための永久欠番となった。選手は背負わないが、球団関係者の間で使用される、楽天の象徴的番号。 | ||||||||||||||
生涯を通じて打倒巨人に燃えた「闘将」。監督に就任した3球団を全て優勝させ、GM的側面を持つ全権監督として評価されるが、他人を 惹き付ける不思議な魅力を持っていた。好んだ言葉は「夢」。巨人を倒して日本一という「夢」を果たした被災地で「夢」は永久に息づく。 | |||||||||||||||
東北楽天ゴールデンイーグルス 準永久欠番 | |||||||||||||||
2022 | 人生の大半をユニフォーム姿で過ごした、NPB史上に残る名選手にして名監督。三冠王に輝く等の選手としての実績は無論、ヤクルト、 阪神、楽天を変えた監督としての功績も見事の一語。注目されていた19を継いだのは投手の藤平だったが、今後の変遷はどうなるか。 | ||||||||||||||
2013年に24勝0敗1セーブの成績を残し、楽天の初優勝に貢献した不敗のエース・田中将大の番号。日本一の胴上げ投手となった後、 MLBに活躍の舞台を移した田中の18は準永久欠番となったが、奇しくも東日本大震災から10年の節目に、本人の復帰という形で復活。 | |||||||||||||||
失効・消滅となった永久欠番 | |||||||||||||||
バファローズ | 近鉄一筋20年、通算317勝をあげた大投手。その背番号1は1985年7月31日の制定後、長きに亘ってパ・リーグ唯一の永久欠番だった。 オリックスと近鉄の球団合併で永久欠番失効。監督になった際には70を選んだが、7年間の充電を経て0からのスタートとも解釈可能。 | ||||||||||||||
ベイスターズ | 1997年に、「球団に対して貢献のある複数の著名人」を対象に制定された異色の永久欠番。親会社がマルハ、TBS、DeNAと代わっても 欠番だったが、2013年から育成枠の今井金太が背負うことになり失効した。DeNAに譲渡の時点で永久欠番でなくなっていた可能性も。 |